押絵羽子板
匠の技が描き、作り上げた街の芸術品


春日部の名産品として名高い押絵羽子板。
戦後にかけて、浅草の押絵師たちが戦禍と雑踏から逃れ、良質の桐の産地であった春日部に移り住んだことに始まります。
そもそも、押絵の「押す」という言葉ですが、昔は紙を張ることを紙を押すといい、布を張ることを布を押すといいました。
この押絵羽子板もそこから来たもので、厚紙に羽二重の布をかぶせ、中に綿を入れてふくらませ布の端を厚紙の裏にまわして張ったものを、桐板に張りつけたものです。
春日部の押絵羽子板は、すべてが手づくり。全部で50〜70もの材料を組み合わせおよそ200もの工程をかけて一枚の羽子板として仕上げられます。
押絵羽子板には一般的に男物と女物と呼ばれる2種類があります。この男物というのは、「役者物」ともいわれ、歌舞伎役者が見えを切ったときの表情や仕草を躍動的に描いたり、実在の役者の顔を似顔絵風に描いたりします。
また、女物は目のぱっちりとした美人を描いた「見立て物」をはじめ、浮世絵風の美人を描いた「浮世絵風」、目の細い日本画風美人を表現した「松園風」があり、男物は不景気をはねのける縁起物として、女物は祝い物として飾られています。
また、最近では、テレビドラマの主人公やマンガのヒーローなどを押絵にした「変わり羽子板」というのも作られPRに一役かっています。
羽子板の由来 羽根突きは、かつて女の子の遊びとして、お正月によく見られましたが、古くは正月の祭事に関わりのあるものであった。
古くは、羽子板を胡鬼板・胡鬼子とも呼び、鬼お突くことで、新しい年の無病息災を願ったものであった。
また、羽根の飛ぶ様子が蚊を食べるトンボに似ていることから、子供が蚊に刺されないためのまじないともいわれた。
江戸時代以降は、女性の遊戯として定着。羽根突きは、2人以上でひとつの羽を突く方法を「追い羽子」、一人で突くのを「揚げ羽子」と呼び、羽根突きで負けると、顔に墨を塗られるのが暗黙の約束である。
ドント焼きの燃え残りの墨は、災難除けとして顔に塗ると風邪をひかないなどといわれ、羽根突きの墨塗りもそうした魔よけの信仰の名残でもあろうか・・・
お歳暮には、羽子板を 羽子板は貴族の間で歳暮の贈答に用いられた縁起物であったが、やがて民間でもまねるようになり、女児の初正月を祝う贈り物として、男児に贈られる破魔弓とともに、子供の成長の無事を祈る呪具として定着したそうである。
中世からの伝統で、上流社会では左義長羽子板が暮れの贈答品として用いられた。近世に入っても、武士の間でこの習慣が受け継がれてきた。
j女児の初正月には、その子の無事な成長を願って、親の実家や親戚から羽子板を贈る風習が全国的に見られるようになり、日本各地には、それぞれの地域で独自の羽子板が伝えられてきた。昭和30年頃には、桐箱に入れたものが親戚から贈られたようであった。
進化する羽子板と「春日部押絵羽子板」 羽子板は、時代の流れとともに、信仰の具から遊びの具、飾りの具として様々な進化をしてきた。飾り羽子板として意匠をこらした多彩な様式も誕生したが、その中でも押絵羽子板は独自の展開をしたそうである。
押絵羽子板は、次第に立体的にそして様々な技巧を凝らしたものが作られるようになり、限られた小さな空間に、一瞬の動きをとらえた独自の美の世界を生み出したのである。
明治時代中期にその全盛を迎えた押絵羽子板の技術は、団・菊・左を頂点とする明治歌舞伎の全盛期とほぼ軸を一にしての展開をした。
春日部は「押絵羽子板」職人の街です
浅草羽子板市と
春日部押絵羽子板と特産品まつり
今や日本の冬の風物詩となったのが12月17日18日19日に行われる浅草の羽子板市である。1年間職人が丹精こめて製作した羽子板はここで売られる。
浅草の歳の市は、もともと新年を迎えるための日用品の市であったが、羽子板の華やかさが人目を惹き、羽子板市と呼ばれるようになったそうである。
浅草の羽子板市には、昔から職人の街「春日部」から、春日部羽子板組合のメンバーのほとんどがお店を出しております。
また、春日部駅東口では、毎年12月23日24日と『春日部押絵羽子板と特産品まつり』が行われます。春日部は昔桐の産地であったこともあり、特産品には押絵羽子板、桐小箱、桐たんすと桐に関係する特産品が多くあり、麦わら帽子も加えた4つの伝統的手工芸品が特産品となっており、春日部押絵羽子板と特産品まつりでは、本物の職人が作り上げた最高級品のみが、直接販売される数少ないチャンスとなっております。

はごっちが行く(春日部押絵羽子板)

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